ここに大きなバームクーヘンの破片と小さな破片がある。
どっちを喰らうべきなのか。
舌切り雀に出てくる「大きなつづら」と「小さなつづら」ではないけれど、さてどうしたものか。
俺は、欲張りなので大きなつづらを選ぶであろう。
おばあさんの気持ちは十分にわかる。
あの話は、大きなつづらを選んだから「欲張りである」みたいなレッテル張りがされている。
だけど、よくよくあの話を振り返ってほしい。
つづらの大きさは関係なく、おばあさんの「卑しさ(いやしさ)」を説いたものである。
つまりは、金銭や物に対する欲望がむき出しで、品位に欠けるさまを描いた物語。
大きなつづらを選んだからと言って、何ら恥じることはない。
諸君も自分の選んだつづらを選ぶといい。
余談だけど、昔話やグリム童話に出てくる善人役はお爺さんで、悪役は大概おばあさん。
舌切り雀をはじめ、三枚のお札に白雪姫。それにシンデレラにヘンゼルとグレーテル。
次点で、花咲かじいさんの隣の老夫婦。
こちらは、夫婦であるのでお爺さんも悪役。
話が脱線したが、俺はやっぱり大きなバームクーヘンを選ぶだろう。
そうだ、これはバームクーヘンであってつづらではない。
つづらの中に何が入っているかは分からないからこそ、無駄な関心や興味が広がる。
日本人的な発想で「慎ましさの中に本当の美しさを求める」的なあの感覚。
大多数の人々の本音は、大きなつづらを望んでいることだろう。
だってそうでしょう。
例えば、あのつづらの中に札束が入っているとする。
小さなつづらだと、1億円しか入らないが、大きなつづらだと10億円入る。
どちらを選ぶかは、聞かずとも出ている。
さらに言えば、海外に目を向けてみるといつまでも夢心地な物語だってある。
それはピーターパン。
ウェンディはネバーランドから帰還したが、ピーターパンはずっとネバーランドで過ごす。
トイザらスだってそう。
〽子供でいた~い ずっとトイザらスキッズ
ずっと子供のままでいいんだよ。自分の思うように生きればいいんだよ。
そう受け止められるようなメッセージ性が込められている。
だからこそ俺は、大きなバームクーヘンを選ぶ。
(こじつけ感が半端ねぇなw)
とは別に、他の視点も考えられる。
「大きなバームクーヘン」と「小さなバームクーヘン」が俺の目の前にある。
この”大きさ”の感覚は、俺とこのバームクーヘンを切ったヤツしか知らない。
大きなバームクーヘンを食ったら、残りの小さなバームクーヘンが当然残る。
ということはだ、残りの小さなバームクーヘンだけを見たヤツは、それが大きいか小さいかの概念はない。
だって、その小さなバームクーヘンしか知らないのだから。
この場合「大きなバームクーヘンを残してあげておく」というその良心は、不要だろう。
人生を豊かに生きるための術が、この小さな瞬間にも秘められているのである。
…続く。
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画像ではわかりにくいけど、ものすごく小さなミカン。
バナナの厚みと同じくらいのミカン。
しかもシワシワなミカン。
棒までついているミカン。
誰か食べろよ。
俺は食わんけどw